■結婚してから10年で株式式会社として、本社を建築することにしました。その時も将来日本一の会社を目標にしていましたので、ギフト商品をショールームに飾ることに大きな抵抗感がありました。この店には、どこにもない最高級の商品を展示したかったのです。しかし現実は厳しく売り上げの90%は香典返しの返礼でした。ショールームはあくまで信用付で、見本としての役割しかありませんでした。一方では輪島塗を販売したいと考えていたのでしっくりとしませんでした。
ですから、理想と現実を分けて経営しなければなりませんでした。まさにアンバランスの見本みたいでした。会社の売り上げは、私が一人で行った外商で90%以上の売り上げでした。この様に会社の屋台骨は社長の頑張りにかかっていました。
その一方で創業時から好きだったカタログ販売、通信販売を学び利益の多くをシステムにも投入していました。小さい会社でも創業当時から社内をネットワークで結んでいました。これも全国のギフト関連の全社より進んでいたと思います。
会社経営とともに市民運動、政治活動にも介入して日本の右傾化に抵抗しました。ここでも終戦日に生まれたことと、うそや金儲けで自分の心を裏切ることをしたくなかったのでした。だから毎日の生活は一般市民とは一線を引いていました。
だからこそ本社の建築も日本の会社の最高建築を導入いたしました。30坪の建築費は当時で2100万円払いました。1坪70万円です。今なら建築費4000万円で坪単価は140万はすると思います。日本で最高の木曽のヒノキの管財を惜しなく使い、大工は最高の宮大工に施工していただきました。使用した他の材料もほぼ最高金額の本物を使いました。ここでもまたまた負けず嫌いの私の気持ちがさく裂いたしました。
日産サニー勤務の時こんな店をと考えていました。
七宝焼きで有名な安藤七宝店です。
松坂屋本店の隣にありました。
いよいよ宝物の様な和風の店が現れました。
完成後の本社です。これが日本建築の神髄であるとどっしりと構えています。