会社も順調に経営できました。特に一宮市では香典返しで独壇場でした。1日に50万円も受注することもざらでした。時には100万円~150万円も時々ありました。しかし商いを始めてから贅沢を厳しく排しておりました。40年間車は20万から30万円の中古の軽自動車しか乗りませんでした。店長をしていた妻にも厳しく通達してパートさん(最高で15名程)より下の生活をするように注意していました。取引銀行には毎月30万円~40万円の返済を一度も遅れたこともありません。当然ながら取引先にも一度も支払いが遅れたことはありません。又、経理はわざとプロに近いパートさんに全部任せていました。同時に税金も1円たりともごまかしはしませんでした。又、日産サニーの営業と同じように朝早く7時に家を出て会社に帰るのは夕方6時過ぎでした。帰社後2~3時間ほど残務処理が続きました。寝るのは毎日夜10~11時でした。そして定休日の水曜日も休んだことは一度もありませんでした(家族旅行と親戚の冠婚葬祭以外)。ここでも負けず嫌いと潔癖くせが抜けませんでした。そして自分にも嘘をついたことはありませんでした。
ところが、死去された市民の情報開示が法律で禁止されました。それ以後その情報の入取に困り営業に決定的ダメージを受けました。それが60歳のころです。どうも葬儀社が市役所の火葬許可証明の閲覧の禁止に関与したようでした。それで、全国の香典返しのギフト業者が急激に経営悪化となりました。それは、我々ギフト業者が香典返しにあまりにも頼っていたからです。本来はギフト商品をレベルアっプさせてギフト産業を研究すべきでした。商品をギフトからいち早く変えて、通販に活路を見出しデパートを超え戦略を構築すべきでした。
社長の私が65歳になって会社の借り入れもなくなり、この辺で私も年金生活をしたくなりました。そして2~3週間後に廃業を決めました。私は、何事もぐずぐずすることが嫌いでした。当時の売上は通常の半額くらいになっていました。しかし赤字経営ではありませんでした。問屋筋もあきれていたようです。働いていたパートさんも素直に認めていただきました。商いも終わりが大事なことも改めて痛感したのでした。