木村康一の現在です。いかがでしょうか似ていますか?
上記の写真は、ウイキペディアの木村長門守重成の記事にあった写真を借用した。
重成は戦死した当時22歳で美男子だったという事なのでこんな顔ではなかったかと思われる。
話は今から50年程前にさかのぼる。私が28歳の頃、突然父親の木村虎次郎から当家は木村長門守の子孫だと打ち明けられた。私の兄弟は7人(そのほかに若い頃2人死んでいる)で私は次男である。当家が、木村長門守重成の子孫という事を知っているのは次男の私だけだった。父虎次郎が長男にこのことを言わなかった事は不自然だった。しかし、私なりに思ったことは行動がしっかりしていた私だけに打ち明けたのではと勝手に想像している。戦から400年たっても若し他言すれば、徳川家康公の刺客に殺されると思っていたかもしれない。それが代々子孫の掟だった可能性が強い。
木村長門守重成が戦死したのは1615年5月の大坂夏の陣である。その丁度400年後のぴたり2015年の5月に何気なくインターネットで「木村ながとのかみ」と検索したら、木村長門守重成は大坂夏の陣の立役者と出てきた。父親から聞いたのは耳なので長門守の漢字もわからなかった。私が「ながとのかみ」という言葉をなんで50年も覚えていたのか不思議で仕方がない。それから50年間一度も思い出したことがなかったのに・・・・・これは魂の思し召しではなかったかと思う。それしか考えられない!実に不思議である。
父の木村虎次郎が、たった1分~2分でこのようなことを言ってその数年後あの世に行ってしまった。だから今さら話を聞くこともできない。身内にそれともなく問いかけても、興味さえない、ましてや調査などするはずもなく自分独りで考えるしかなかった。菩提寺に調べてもらえば少しは判明するかわからないが、多くの住職はそんな親切、行為、熱意が全く見えない。豊臣側も証拠になるものは残すはずもなく歴史を紐解いてもまず無理であろう。歴史とはその時代の都合のよいように解釈するのが通例である。私がいくら頑張っても無理なので当時の父親の言葉を信じるしかない。それと少しばかりの状況証拠をもとに調べるしかない。それが私に課せられた使命かも知れない。これからも時間があれば捜索したいと思うものである。
多分400年前に大坂夏の陣で徳川家康に負けてから、豊臣家が再び立ち上がらないように逃亡した豊臣方の人物を全国くまなく厳しく山狩りしたのである。当時京都には五条他、各橋に生首が無数に並んでいたとのことである。徳川家康は、愛知県の人間だから特にしつこい性格だったのでしょう。豊臣方の人間だと判れば、おそらく全員打ち首が飛んだと思われる。そんな恐怖があり、我が木村家の先祖は尾張のこの地に逃げ隠れ、農民として400年もの間ひそかに生きてきたのだと思われます。
木村長門守重成の生い立ち、性格、活躍はこのページをご覧ください。これが大まかな木村長門守重成の姿だと思う。 クリック ⇒
木村長門守重成の人物像 天下の徳川家康をたしなめるくらいの武将が私の先祖だと思うと、とても光栄であり自慢できる。400年以上前の時代だが、木村長門守重成が昨日まで生きていたような気がしてならない。
木村長門守重成の性格が私と、うり二つだからである。天下の武将徳川家康に異論を唱えるなどは当時でも誰もいなかったはずである。一方家康とはレベル・パワーが違うが、天下の日本仏教会の会長である河野太通老師に正面から異論を唱える私(木村康一)とは同じ様な性格ではないかと思ってしまう。
2-B 大阪国際平和資料館での信じられない夢のような出来事
ここから少し横道にそれるが、関連することなので少し書きます。今から30年程前の話だが大阪城の至近距離に大阪国際平和資料館が当時開館した。私は愛知県内にも平和資料館を作りたいと考え愛知県平和資料館開設準備委員会を立ち上げた。そこで開館したばかりの大阪国際平和資料館を勉強したいと三度ほど訪れた。
そして立派な資料館を立ち上げた大阪国際平和資料館の初代会長の勝部元さんにお会いしたいと直接平和資料館の事務所に行き願い出た。応対してくれた平和資料館の課長が、勝部元館長に連絡したら館長は今自宅におられますので行ってくださいという事だった。その勝部先生の自宅まで、大阪駅から地下鉄で1時間ほどかかった。課長は宝塚駅に降りたら勝部元(かつべはじめ)さんの自宅までと言えば、タクシー運転者は誰でも知っているとのこと。本当かいな!と思いタクシー運転手にその通り指示したら間違いなく自宅まで走ってくれた。二回目のびっくり仰天!
勝部元さんは桃山大学の学長だという事は分かっていたが、宝塚市駅のタクシー運転者全員が勝部元先生の自宅まで知っているとは驚きだった。宝塚市と言えば私が住んでいる一宮市程度の人口の町だった。田舎町の一宮市でも考えられないことだった。
私がどんな人間か全く知らないのに又、突然会いたいと申し込んでも普通ならまず断るだろうと思ったが、会うから自宅までこいとのこと。信じられないことが起きた。一回目の仰天
宝塚駅からご自宅に着くまで、タクシーの中で考えたがさぞかし大邸宅だろうと思っていた。ところが、ところが自宅は普通の平屋の借家程度の家だった。ここでもさらにびっくり仰天した!三回目。勝部先生は快く私を出迎えていただいた。私から少し話をさせていただいたところあなたは偉い、そんな人は初めてだと言いながらほめていただきました。その後せっかくだから、私の教え子で愛知大学で近代歴史を教えている教授の江口圭一君を紹介する。そして愛知県平和資料館建設準備委員会の会員になるように紹介状を書くと言いながら、勝部先生の名刺にコメントを書いていただいた。またまた四回目のびっくりである!
勝部先生は、当時85歳くらいの柔和で優しいお父さんのような雰囲気でした。私が緊張することなく自分の思いを話せる優れた教育者でした。こういう人が、釈迦如来の後を継げる人物ではないかと今思う次第です。
単なる田舎町の高校卒で、小さな会社の自営業者にこれほどまでに親切にしていただくとは信じられませんでした。私は勝部元先生に、愛知県平和資料館建設準備委員会の発起人の女性弁護士と一緒に、愛知大学の江口教授に会いに行きますと答えた。ところが勝部元先生はお前さん一人でいけとのことだった。その意味は、その時は全く分からなかったがその後起きた事件で思い知らされた。
※ 愛知県平和資料館建設準備委員会の発起人は、私(木村康一)と愛知県弁護士会元副会長の野間美喜子さんだった。
※ 愛知大学の江口圭一先生は、全国の大学教授の中で日本近代歴史の第一人者だったのです。ここで五回目の仰天である。まるで不思議なことのオンパレードだった。約半日でこんなことが普通起こるだろうか!
2023/12/01 木村康一 記
2-C 次回は、前記の天国から地獄に落ちたような涙が出てしまうひどい話。
大阪から名古屋に帰る東海道新幹線のなかで、その日の度重なる出来事にうれしさがこみあげてきた。今まで自分は誰よりも正直に又、信念を貫き生きてきたことがこのような幸せにつながったのだろうと思い仏、天、魂に思わず感謝をせざるを得なかった。こんな気持ちは、いい加減な人間には与えられないだろうと思った。
そこまでは素晴らしいことばかりである。しかし、その後の準備委員会の出来事で恐ろしい現実を見てしまった。準備委員会はそれまで2、3回野間美喜子弁護士の事務所で行っていた。これまでは私が資料館の思想、平和に対する考え方、主催者の決定、建設の規模、総工費、資金などを研究して野間美喜子弁護士は広い交友の中からの会員募り、役員の選定など主に人事を担当していた。
野間美喜子弁護士は、元愛知県弁護士会副会長の実力から、多くの人材が集まりつつあった。彼女の話では、愛知県知事ともゴルフなどで親しくしているとの話も聞いていた。
その日は、名古屋大学の法学部の部長の森英樹教授や、愛知大学の数名の教授、女性で活躍されている人など総勢で15名ほどいたかと思い出す。森英樹教授は実は私も以前から少しお付き合いをさせていただいておりました。
ここで野間美喜子弁護士との出会いを少し話したい。私は大よそ今から40年前から市民運動を行っていました。市民運動の草分け的存在である。そのころ名古屋大学の教授数名とも一緒に活動していた。市民運動で、私が愛知県にも平和資料館を作りたいと相談したら、野間弁護士も同じようなことを言っていたとのことでした。そこですぐに、野田美喜子弁護士に連絡を取り弁護士の事務所で話し合いを行った。
野間美喜子弁護士は、彼女の両親がアメリカ軍の名古屋空襲で随分ひどい目にあった。だから戦争は二度としたくないというのが当時の彼女の平和への思いだった。私の場合は1945年(昭和20年)8月15日の夕方に生まれた。その日はご存じのように、正午に天皇が戦争の終結を宣言して敗戦を認めた日だった。私自身は、戦争が終わった直後の誕生は何かの示し合せだと思い込んでいる。そんなことで、自分は今後平和主義に生きようと本気で思っていたのである。
その為に、野間美喜子弁護士の平和資料館建設への動機は随分弱いのではないかと当初から危惧していたのである。しかし私の平和主義の話を聞く人は皆無の中、野間さんは話し合えるだけでも有難いと思い飛びついたのである。これが失敗の元になってしまった。
今日はここまでにします。次回もご期待ください。
顔写真は、ウイキペディアから借用いたしました。
2023/12/04 木村康一 記
2-D
愛知県平和資料館建設準備委員会は、野間弁護士の力でそうそうたるメンバーができておりました。私一人なら、このような大きなことはできるはずがありません。そのことは謙虚に認めなければならない。その立派なメンバーを前にして、まず私が発言した。先日の大阪平和資料館館長の勝部元先生に会い、江口教授への紹介状をいただいたことを簡単に報告した。
そうしたところ信じれないことが起きた。
私の発言の直後に野間美喜子弁護士が鬼のような形相(ぎょうそう)で愛知大学の江口圭一教授のことを「あいつは赤だと言い放った」私はその発言の趣旨が分からずポカーンとしていた。一瞬周りも時間が止まってしまったようだった。
こんなことが、戦後のしかも一弁護士の口から発せられるとは私には信じられなかった。ここまでくると犯罪的である。あまりにも衝撃が大きかったので、野間弁護士の暴言は今でも絶対忘れません。40年前の野間弁護士のその言葉は決して忘れないでしょう。死ぬまで・・・・・
その言葉を、解釈すると江口圭一愛知大学教授は共産党の党員だという事になる。しかし、いくら共産党でも、自民党でもどこの党員になっても個人の自由のはずである。憲法、法律の専門家である弁護士でなくても一般人でもイロハの問題である。その後、野間弁護士は「こんなことを言う木村さんとは一緒にやれない」と言い出した。いやはや、その時点では野間弁護士は、愛知県平和資料館建設準備委員会の代表でも何でもない。野間弁護士のそんな暴言を聞いた出席の名古屋の多くの知識人、有名人が、野間弁護士をたしなめもしないのも信じられない。これが法治国家の姿でしょうか?いくら名古屋の田舎人の集まりでも許されること、嗤(わらって)済まされることではない。
そこで私は黙っていては男が廃(すた)る。いくら無知で教養がない私でも黙るはずがなかった。その野間弁護士に向かって、私は「あなたは本当に日本の弁護士なのか、弁護士の免許を持っているのか」となじった。そしてあなたと私は、日本が平和国家として二度と戦争を起こさせないようにしたいと誓って、この運動を始めたのではなかったのかと静かに問いただした。本当にびっくりした。私は、こんなことが起こるとは一ミリも思っていなかった。
いかに日本人の肩書(政治家、弁護士、裁判官、教師、医者、公務員、宗教家他)など、いい加減なものかがはっきりと分かった次第である。
2023年12月9日 木村 康一 記
今回はここまでにいたします。又、次回をお楽しみください。
2-E
私が人間不信になったのはこの事だけではない。約40年間市民運動を行ってきた結果で到達した結論である。本当に信頼できる人は市川房枝さん、下呂市の自給農業の先覚者の中島正さん、2500年前の仏教の開祖釈迦如来などほんの片手くらいしか思い出せない。
所詮人間など信用してはいけないと確信した。釈迦如来は「犀の角」(さいのつの)という事を教えていた。他人を頼らずまっすぐと進めという事である。今頃のコロナ騒ぎも嘘の塊だと確信する。
人間というものは所詮この程度だと確信すればよい。そんな人間を相手にするだけでも時間の無駄である。私は最近このように割り切っている。これなら人に裏切られても何ら腹を立てなくてもよい。そのようにすれば健康にもよい。
これで大阪平和資料館建設問題を終わりにします。ご視聴有難うございました。
大分横道にそれましたが次は本来の記事に戻ります。木村長門守重成の続きをご覧ください。
2F
大阪平和資料館建設問題を語ったのは、結局次の事柄が関係してくるからである。それは我が木村長門守重成が亡くなったのは大阪城の至近距離である。その大阪城のすぐ隣にあるのが大阪平和資料館である。そこで多くの不思議なことが起きるのは、木村長門守重成の魂が関係していると思われるのである。
そこでもう一つ、大阪夏の陣の半年前に大阪冬の陣があった。その時も徳川家康側が優勢に終わったが完全に勝ったわけではなかった。そこで豊臣秀頼の命を受けて、木村長門守重成が和議の調印に徳川家康に会いに行ったのである。ところが、家康の血判が薄いと異論を唱えたのが我が若き英雄の木村長門守重成でした。
もしかしたら、和議の調印には木村長門守重成が自ら名乗り出て行ったかもしれない。そうだとしたら、木村長門守は私と同じ平和主義者ではなかったと思う。ところが和議の調印が終わってから家康は、徐々に大阪城のお堀を埋めてしまって調印を実質反故にしてしまったのである。
当時木村長門守重成は22歳、徳川家康は70歳くらいか。家康とは孫ほどの違いがあり、家康は戦いの超ベテランである。そして愛知県人の多くは心が汚い。徳川家康は勇敢な木村長門守重成との約束など屁(へ)とも思わなかったのであろう。
木村長門守重成は、その和議の成り行きを怒りをもって見守っていた、木村長門守重成の怒りは尋常でなかったと思われる。そして大阪夏の陣は、世間の予想通り豊臣側の完敗だった。この戦いで木村長門守重成は、勇敢にも真っ先に突撃して死去したのである。一方大将である豊臣秀頼は大阪城内で母親と自殺したとのことだった。
※ 木村長門守は当時部下の兵士は5000~1万人いたと予想される。
※徳川家康との和議の調印を引き受けたのは、木村長門守重成の本心は、もしかして私と同じ平和主義者だったかもしれない。22歳の若さでしかもまだ結婚をしたばかりである。誰が死にたいと思うのだろう。当時の重成の心境を思うと心が痛む。それだけに、彼の魂が私に平和主義を貫いてほしいとつきまとったとも想像される。
そして私は、1945年(昭和20年8月15日)天皇が正午に行った敗戦放送の直後にこの世に誕生したのである。実に不思議なことばかり続く。これには、やはり日本人全体のやりきれない思い、日本軍に殺された他国の民衆の恨みが重なっているのではないかと思う。
この記事を私に書かせたのは日本人に対する、海外の方の恨みつらみが重なっている気がしてならない。それほど日本人は、過去に行った戦争の責任を全く謝罪しておらないのである。そのために、私は約3年間毎日ボランティアで行っていた、廃寺の掃除が終わった時西の方角に向かって謝罪を繰り返していました。
できれば日本人も、当時生きていた人くらいは私のようにせめて手を合わせてもらいたい。それが人間としての務めだと思うがどうだろう・・・・・
男前で度胸があり、きれい好き、心やさしい木村長門守重成は当時から大変なファンがいたとのことである。又、木村長門守重成は今でも大阪では大変な人気があるとのことである。この記事が本当なら私は愛知県人ではなく、もちろん一宮カラスでもない。だから、一宮市の人間が性に合わないのはこのことが関係しているかもしれない。