NO1
これから実家の状況証拠をこと詳しく書く。この話を私の兄弟にしたことがあるが、全員あまり乗り気でなく、関心がなかった。中には茶化したり、父親が酒飲みだったことを引き合いに出して笑いながら取り合わなかった者もいる。
木村長門守重成は当家の先祖であることを子供7人(そのほかに2人小さいころ死んでいる)の中で6番目の私、康一だけに虎次郎が白状したのが面白くなかったかもしれない。この後数年で父親の虎次郎は他界したのである。
400年ほど続いた木村本家の、約15代目の当主が木村虎次郎である。おそらく虎次郎も若いころ、父親の福三郎から秘密を打ち明けられたのではないかと想像する。本来は長男の庄吉に打ち明けるのが本筋であったが、どういうわけか私に白羽の矢が立ったのである。この虎次郎の「遺言」ほんの3~4分だった。
父虎次郎の「遺言」の記憶をたどると、当家の先祖は戦国時代の落ち武者で「きむらながとのかみ」なのだ。「きむらながとのかみ」は戦国時代の落ち武者で、木曽川を下り尾西市の方から一宮市に逃げ込んだ。そして一族の一派は、分かれ北方町に住んでいる。これらも同じ「ながとのかみ」の子孫だと強調したのである。ただこれだけである。当時私は20歳くらいだった。
旧木村家の別棟に昔の長持(大きな木製の箱)があり、その中に鎧(よろい)2着、大刀、小刀、鉄の鏡などがあったことを記憶する。我が家は昔から農家だったのに不思議であった。それから間もなく父親の虎次郎はあの世に出かけてしまった。私の住む一宮市花池と隣の宮地で木村の姓は現在30軒ほど集中している。おそらく「ながとのかみ」一族だと思う。それらはほとんどが農家だったはずだが、仏教は禅宗の臨済宗妙心寺派で寺は妙興寺境内の中の来薫院である。そして家紋は丸にくぎ抜きである。
ここでも不思議なことがある。仏教の禅宗は、戦国時代でも武家しか入れなかったはずである。又、家紋も丸にくぎ抜きは武士だけのものである。それが多くの花池、宮地の農家の木村家が同じであることが大きな謎である。これはまずあり得ないのである。
鎧(よろい)
家紋 丸にくぎ抜き
今回はここまでにしたい。次回もお楽しみください!
当家は仏教の信者で、禅宗の臨済宗で妙心寺派である。菩提寺は隣にある大寺の妙興寺だ。その寺の周り一帯は妙興寺という町内である。妙興寺という名鉄電車の駅もある。
その境内の中に、来薫院という寺がありそこが当木村家の菩提寺である。木村長門守重成の一族の中心が当家ではないかと思っている。その状況証拠等を次にあげる。
木村長門守重成は400年前の大坂夏の陣で戦死したのであるが、それ以前に当地大和町花池町内に苅安賀町がある。そこに苅安賀城というお城があった。この城の城主家老は隣の萩原町林野にいた平松という人物であった。
その平松家から、私の父親虎次郎の母親(私から言うと祖母)が嫁いできたのである。日本は終戦前(80年ほど前)はまだ身分の差別が厳しいはずであった。もし木村本家が農民だったら平松家(武士)の家から嫁ぐことはないと思う。
それに、木村本家の菩提寺の来薫院(妙興寺境内にある寺)の住職の苗字も平松である。そして萩原町の林野である。これだけ揃うと、当木村本家が木村長門守重成と関係がないとはとても思えない。
妙興寺という寺は、全国的にもまれな大きな寺である。その寺には豊臣秀吉公から大阪夏の陣の数十年前に莫大な寄付金と、有名な僧侶の住職が送られていることがはっきりとしている。だから大阪冬の陣が終わった時点で、木村長門守重成の親族の逃亡先を一宮市の妙興寺に決めていたのだと私は推測する。
たしか寺は当時、治外法権で武士が家宅捜索できなかったはずである。しかも、尾張地方は織田信長、豊臣秀吉などが各地にお城を建てて、住民はその配下だったはずである。その為に、住民も木村長門守重成の一族をかくまったと考えられる。
そして現在でも、本家花池の周辺でも20軒ほどの木村家があり、隣の宮地でも20軒ほどある。
又、もう一つの逃亡グループは、一宮市北方町というところに現在20軒ほどの木村家がある。その現実も父虎次郎が生前、私に言ったこととぴったりと符合する。まだある。その木村家のほとんどが一町ほどある地主だった。一町とは一反(300坪)の10倍で3000坪である。
そして私は現在、年金暮らしではあるが、政治に興味が深く40年間市民運動をしている。又、日本女性新党、自給農民党という政治団体の代表をしている。そして、昨年は市会議員選挙にも立候補した。その上、近い将来必ず日本の政権をいただくという大きな夢(目標)を持っている。
私の知る限りこのような夢を持っている人物は、一人も見たこともなく聞いたこともない。自分自身このことも不思議でならない。もしかして、私の上空で釈迦如来がしっかりと私を見守っていてくださると信じている。だからこそ、私は第二の木村長門守重成となり日本の政権を取り、平和な国づくりに邁進しなければならない。
その夢の達成は限りなく0%に近いが、たとえ1%でも見込みがあれば挑戦したい。それが私の体の中にある木村長門守重成の信念である。