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安藤昌益の闘い(寺尾五郎著)

 
はじめに
 
 江戸時代の中期、東北地方の片田舎で、深い雪の下で埋もれるように生きながら、土くさい素 朴さをもって、しかも、ヨーロッパのどの近世思想家よりも高い水準の哲学と、徹底した革命思
想とを創造し、こぼれ溢れるようなヒューマニズムを展開した安藤昌益という人物がいた。
 安藤昌益——安氏正信といい、通称孫左衛門、確竜堂良中と号し、初期には柳枝軒とも号し
た。
 その著書にして現在に伝っているものは、若干の断片のほかに、
   刊本『自然真営道』全篇、三巻三冊
   稿本『統道真伝』五巻、五冊
   稿本『自然真営道』百巻、九三冊
 があるが、百巻本はそのうち一五冊分しか伝っておらず、刊本『自然真営道』の後篇や『孔子
一世弁記』などは予告されてはいるが未刊らしく、伝っていない。
 昌益の生涯はまったく謎のままであり、生年も生地も確定はできないが、その家系は、出羽国
秋田郡二井田村(現、秋田県大館市大字二井田)に代々つづいた豪農であることが、ごく最近
判明した。生年は元禄一六(一七〇三)年の説が有力である。
 安藤家は、何かの事由でいっとき離散し、若き昌益は上方あたりに出て学問、医業を学んだ
ような節がある。その後、延享年間から宝暦の半ばにかけては、陸奥国八戸町十三日町(現、
青森県八戸市十三日町)に町医として家族ともども住んでいたことは明らかである。昌益の著
述の多くはここでなされたようである。
 晩年は、単身で故郷の二井田村に移り、安藤家を継いだ。そのころ全国に散在する門人を
一堂に集め、自然真営道を究め、思想統一をはかる一大集会を開いている。二井田村にあっ
ては、全郷的に無信心がひろがるほどの影響力をもった農民啓蒙活動を行ったようであるが、
宝暦一二(一七六二)年一〇月一四日、その地で病死した。六〇歳ぐらいであったろう。
 昌益の死後、門人たちはひどい弾圧を受け、昌益を顕彰して建てた石碑は微塵に砕かれ、
昌益の跡目を継いだ者には“所払い”の追放令が宜せられている。その後、大館や八戸や全
国の門人たちは活発に動くことができず、時の流れと共に四散し沈黙し、昌益の手稿なども
すべて淫滅してゆき、辛うじてその一部を、明治の中期になって狩野亨吉が発掘するまで、昌益
はいわゆる「忘れられた思想家」(ノーマン)という存在になってしまった。
 だがその埋もれた思想内容は、その確乎とした唯物論・無神論の認識論といい、自然の諸系
・万物の有機的な関連と無限の循環を説く生命感の脈々と溢れる自然哲学といい、とりわけ、
人間の本質を生産労働にとらえ、社会の矛盾の本質を階級対立にとらえ、いっさいの搾取と
抑圧の廃絶を呼びかけたその社会思想といい、日本思想史上に比肩するもののない破格抜
群の革命的思想であった。
 いっさいの人間の平等と男女の対等を唱え、万人が均しく生産労働に従事すべきことを高唱し
、権力的な支配と抑圧的な倫理とのすべてに反対し、人類の太古と将来に共産主義社会があ
ったこととあるべきことを指摘したその革命的思想は、前人未踏の境地であり、世界思想史上
にも冠絶するものであったのである。さらに、その思考方法を貫く矛盾の論理ともいうべき弁証
法の哲学は、おどろくべき高い水準と深刻な迫真力とをもって、不滅の光芒を放つものである。
 安藤昌益は、日本が世界に誇りうるほとんど唯一の革命思想家であり、人類思想史上にそそ
り立つ巨峰の一つである。まさしく昌益は、元禄の世に生まれたマルクスと呼ぶにふさわしい存
在であるといえよう。
 近来、ようやく昌益にたいする関心がたかまり、研究も深まり、専門研究誌『季刊・安藤昌益
研究』なども発行されるにいたっている。「忘れられた思想家」は、今や「甦る思想家」として羽
ばたこうとしているなどと言われるようにもなった。
 とはいえ、現在わかりかけてきていることは、昌益のほんの一部を霧の晴れまにかいま見た
に過ぎぬようなものであって、昌益の全体像は依然として歴史という深い霧の遠くかなたにあり
、その生涯の大半はまだまだ謎のままである。なかんずく、一個の人間がいかにしてその思想
を形成し、いかなる経験といかなる闘いを通じてその思想を構成したのかについては、皆目見
当もつかぬありさまである。
 関心と研究の広がりにつれて、今度は昌益の厖大な体系の中から、今の世にとって何のさし
さわりもないようなところばかりを選びだし、安全無害な虚像をつくり出し、昌益の思想のもつ革
命性を薄めてしまうような試みもまたふえている。これは、さらでだに見えにくい昌益の全体像を
、いっそう見えにくくしているようなものである。こうしたことは客観的・学問的態度でもなければ、
公正冷静な科学的態度でもなく、ただ研究者の側における思想の低迷軟弱ぶりをあらわしてい
るだけのことである。
 身分秩序のがんじがらめの抑圧と、封建倫理のしめつけとで、自由な思考を圧殺し、およそ独創的で革新的な思想の創造を許さなかったあの封建の世にあって、あらゆる権威に抗し、あら ゆる欺瞞をしりぞけ、「亡命をも顧みず」悪戦苦闘し、人間の思考能力の極限を示すほどの営々たる努力の末に壮大な体系を構築し、勤労大衆の利益を守り、民衆の魂に焔を点じた一人の先駆的思想家があったとすれば、その秘められた独創性と革命性とをいやがうえにもくっきりと浮かびあがらせ、そのすぐれた本質部分に煌々と照明をあてることこそが、現代の科学の立場であって然るべきであろう。そうしてこそこの「名もなく貧しく美しく」生きて埋もれていった一人の思想家
を、現代に甦らせることができるのである。