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釈迦如来の様になりたい。

 
 
 
 
今から2500年前、仏教を始められた釈迦如来のような人物になりたい。釈迦如来は釈迦族のお城の王子であった。何一つ不便がない、ぜいたくな暮らしをして家族と暮らしていた。その王子が突然家族を捨てて家出したのでした。日頃お城の外の庶民の高齢者、病人、葬式、貧民などを目のあたりにしていずれ自分もこうなるのだと思い悩んだのである。
 
 
そしてある日突然無一文で城を出たのである。そして、このような惨めなことにならないように修行の生活をされた。しかし厳しい修行をしても、自分の心が悟らず何もできないことを悩んでいた。そして菩提樹の木の下にいたときに、近くの娘(スジャータ)に乳をもらった時に悟りを得たのである。
 
普通は、そのような悩みを持つことがあっても家出などしない。釈迦如来はそこが偉うのである。神経が鋭敏すぎたかもしれない。しかし家族全員を捨てて無一文になるところが、我々凡人と違うところだった。それに、そのような行為をするというインドの宗教(バラモン教、ジャイナ教)が土台にあり、大人物を生んだ素地が花開いたのだ。
 
 
 
 
 
現代の日本、世界ではそのような宗教心が全くない。日本仏教の最高地位者でも金、名誉、地位に目がくらみ人を助け、地球を守るなど及びもしない雰囲気である。その姿を一目見れば僧侶の心など一目瞭然である。
 
それに比べ釈迦如来の無欲は他人に真似できない。釈迦如来の教え、思想は以後の人類に間違いもなく引き継がれたのである。おそらく現在より500年ほど前までは、釈迦如来の影響が人類の良い教えになったのではないか。
 
ところが2000年もたつと、釈迦如来の存在など忘れて肝心の仏教も人間の欲望をむき出しにしだした。それまでの仏教は、他の宗教の土台になっていたと思う。しかし、日本仏教も修行より金、もの、地位におぼれて肝心の釈迦如来の思想などどこかに忘れ去った。そのために釈迦如来がやらなかった、葬式、檀家制度、墓、仏壇、法事、戒名など金になることがどんどん普及したのである。
 
 
そんなことで、仏教も企業、商いと同じように考えられ見栄えだけ、地位だけ、名誉だけ、金だけを尊ぶニセ宗教に代わってしまったのではないか。現代仏教は、庶民の苦しみなど無関心で僧侶自身の身分保護のための宗教に変身したのである。
 
そのために金がないお寺など生きる目的がなくなり、仏教が衰退したのである。この辺で僧侶は財産をすべて辞退し、2500年前の釈迦如来の様になるために出直してもらいたい。そうすれば、現代の狂った社会が立ち直ると思うがいかがなものか。
 
私は釈迦如来の一万分の一でもよいので、その功績を真似したい。そうすれば、今から1000年、2000年後には釈迦如来時代の幸せが再び戻るでしょう。
 
 
日本女性新党、自給農民党、キムラインターナショナルギフト代表 木村 康一  2023/12/23