淀屋橋
第一章 都市のひろがり
一 都市の定義
都市はアメーバーの様に広がりつつある。
洋の東西、体制の如何を問わず、この傾向(都市の広がり)は、あらゆる国のあらゆる地域において顕著な進歩を示している。このままの状態で都市化が進めば、やがて地球上は都市によって覆いつくされることとなろう。
都市の広がりとは、いわゆる「都会」の広がりだけを言っているのではない。それは中間地帯や沿線沿道や観光地や住宅団地や疎開工場などのひろがりを包括し、さらには純然たる(と誤解されている)片田舎においても、村の中心部やアスファルト道路等は「都市」への転化として取り扱われねばならない。
つまり都市というものは地域において田舎と区別されるだけではなく、産業別(階級別)の色分けにおいても田舎と峻別されねばならないのである。即ち二次三次産業の根拠地であるということ、または二次三次産業従事者の居住地であるということ。どんな片田舎においても、そこに二次三次産業が存在し、それの従事者が居を構えていれば、そこは都市とみなされる。もちろんそれに関連して二次三次産業が金儲けと便益のために作った構築物ーたとえば公共建物施設やゴルフ場なども都市とみなされる。
では都市は何故このように止めどもなく広がり続けるのか、ということを少し考えてみよう。
第一の理由・近代化
世界中どんな国家にとっても「近代化」は錦の御旗である。近代化のためにと言えばすべては、善となり、近代化を否定すればそれは即悪となる。
近代化――別の言い方をすれば、二次三次産業の隆盛ということである。(注1) そして二次三次産業の拠点がまさしく都市であるから、近代化ということは都市化ということを意味するのである。
いまや世界中至るところ近代化に向かって二次三次産業人口は増大しつつあり、これに伴い必然的に都市は広がっていく。近代化が悪として否定されない限り都市は止めどもないのであろう。
(注1) 農業(一次産業)にも近代化(進歩発展)はあり得るがそれは二次三次産業の介入によって初めて可能となる。農業はもともと大自然の循環と共にあるあるべきもので、同じことの果てしなく繰り返しがその本質でなければならない。
第二の理由・便利と贅沢と安逸との追求
近代化ーこれをまた別の見方ですれば便利と贅沢と安逸との追及—限りなく繫栄へのたゆまざる進歩を意味するのである。
そして便利と贅沢と安逸を求むるは人間の本能的欲望に他ならずほかならず—もっと楽をしてうまいものを食いたい。もっと面白い目にも逢いたい、もっと珍しく、もっと美しいものが欲しい。―かくして祭りと娯楽とオモチャとアクセサリーとの製造と供与を担って二次三次産業は隆盛を極め、都市は果てしもなく広がりつ続けるのである。
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第三の理由・貨幣経済の魔力
都市化の拡大を担うもう一つの側面を見落としてはならない。それは貨幣経済の魔力である。もっとたくさんお金を儲けるために必要以上に商品を作りすぎ、サービスを強制する。即ち利潤の追求という経済的使命に従って二次三次産業が大活躍を展開し、都市の拡大を招くという仕組みになっているのである。
二 都市化の元凶・土木工事
以上三つの要素(一、国是としての近代化即都市化。二、人間の本能的欲望による繫栄指向即都市化。 三、利潤の追求が生み出す二次三次の大活動即都市化)が互いに絡み合って(相乗効果)都市のひろがりはエスカレートして行くのであるが、その象徴的なあらわれとして例を土木建設にみることができる。
都市化——これは具体的にはコンクリート化ということである。、道路といわず、河海岸といわずすべて都市は、必ずコンクリート工事によって建設されるのが近代的シキタリである。中には
玉砂利の庭園や土の運動場が都市に含まれることもあるが、これはほんの一部にすぎず、大方はコンクリートで大地を覆ぐことから都市はつくられるのである。だから都市は極言すれば土木建設そのものであると解しても誤りではないのである。
さて、ここに、何か事業を企画しなければメシの食えない土木官僚と、金儲けのため常に仕事を切らすことのできない土建業者と、土木工事に従事することによって借金の返済に充てようという哀れな兼業農民と、大量に生産された土建材料を工事に使ってもらわねば困るセメント会社や砂利業者と、その他運搬トラックと建設機械と石油燃料と、さらには田中角栄張りの利益誘導型大政治家と、土木化(都市化)のサービスに随喜の涙を流す愚かな選挙民と・・・・・・これだけお膳立てが揃っていれば、大海の水は涸れるとも世に土木工事の絶えることはあるまい。この調子で行けば、ヒマラヤの頂上まで工事の行われるのも、そう遠い先のことではないと思われる。(注2)
「まさかヒマラヤなんて不必要な仕事までやるはずがない」という人もあろうが、しからば、世の中すべて必要な土木工事が完了したと仮定して、やりたくてももうやるべき仕事がなくなったとき、はたしてそこで建設省が解散し、土木業者が崩壊し、セメント会社が休業し、兼業農民が首を吊るか、といえばおそらくそうはならないであろう。彼らは必ず何らかの方法を用いて、人類にはもう必要ではない所のたとえばヒマラヤの頂上をコンクリートで覆うようなムダな仕事を実行するに違いないのだ。世に土木工事の絶え間はなく、それに比例して地球上大地の都市化は際限もなく(大地がすっかり消えるまで)続いて行くのである。
現に今、千年に一回起こるかどうか判らない崖崩れを想定して頑丈なコンクリート壁を作ったり
、絶対に押し流されることのない竹藪の河岸をわざわざ掘り返して、コンクリートブロックを積んだりするような工事が到る所で行われている。偶然(折悪しく)そこに居合わせたばかりに天災に見舞われ、これは国の手落ちだと裁判にかけて勝訴するケースがしばしばあるが、実はこれは 敗れたはずの当局側が陰でホクソ笑んでいるのである。国はこれで、全く工事不必要の箇所といえども、いつ何時災害が起こるか判らないという口実のもとに、巨額の金をかけて工事を行ない得る
確かな保証をとりつけたことになるのだ。国や土建業者はおおっぴらにありとあらゆる箇所で仕事を計画し、実施し、金儲けをしても、裁判に負けたおかげで国民からクレームをつけられる恐れはないのである。
しかも国はそれ(土木工事)を利用して、景気回復のテコ入れを行う。建設国債と称すか便利なかくれ蓑を用いて札束を乱発し(金回りをよくするだけのために)このかけがえのない大地をひっくり返し(
自然を破壊し)コンクリートで固めてしまうのである。(注3)それほどまでにして求めねばならぬ景気の浮揚(金回りをよくする)とは一体何であったか。それはよりいっそうの二次三次の大活動と、浪費、汚染、破壊の都市活動を(この二つは別物ではないが)さらに促進する以外の何ものでもないのである。
(注2) ヒマラヤの頂上までコンクリート——これはしかし満更荒唐無稽の話ではなく、現に日本で
も富士山をコンクリートで固める工事が、建設省の直営で行われているのである。昭和60年12月
3日の中日新聞は、7段抜きで「富士山コンクリートで固めちゃおう。大沢崩れに大擁壁作戦、」という
見出しで次のように報じている。
「大沢崩れから流れ出る土石流の災害からふもとを守り、富士山の美しい形を保つために、谷の
一部をダムや擁壁で固めようというものだ。ことしは着工三年目、いよいよヘリコプターによる本格的
なコンクリート打ちが始まった。標高二千メートル余、氷点下の気温の中・・・・・・雲の上で進むこの
"大自然への挑戦"をリポートする・・・・・・」細部の記事は紹介を省くが、要するに(建設省の説明に
よれば)近代土木技術の粋をつくして、大がかりな難工事を何カ年もかけて、大沢崩れ源頭部全体
に施行しようという遠大な計画だという。
ではその効果の程はどうか。同レポートによると、山口伊佐夫東大教授は、「大局的に見れば
侵食防止にかなりの効果があると思う。現在の技術は発達しているので、成功すると思う。」と
言い、津屋弘達東大地震研究所名誉教授は、「地質から見て崩れは食い止められない、国費の
無駄使い。第一、日本の代表である富士山の景観を損なう。自然の浸食でできた物は、それとし
て美しい」と否定的だ。
いずれにせよ(成否は問わず)私はこういう工事が、人類社会において行われているということ
自体を問題としなければならないと思う。技術と資材とエネルギーと暇と労力とカネと栄誉欲とが
あれば、人間は到る所でこの種の工事を断行し、それは大地がすっかりセメントで覆われるまで
続くに違いない。
(注3) 建設国債に比べればまだしも赤字国債のほうがましである。少なくとも赤字国債は直接的に
国土(自然)を破壊するためには使われないからである (たといめぐりめぐってやがては破壊に
つながるとしても・・・・・・)。
第二章 都市の悪
一 収奪する都市の悪
もしも「都市」そのものが、人類と地球にとって何らの障害をもたらすものでないと仮定すれば、
前章で述べたような都市のひろがりは、ことさら取り立てて論ずる(非難する)までもないのである。それどころかむしろ、大部分の都市の人々が思っているように都市は(彼らの繫栄を享受するために)
限りなき善であり、だからそれは量的(止めどなき都市の拡大のこと)のみならず、質的にも(さらに高度の近代化、技術革新のこと)積極的に促進されなければならないものでさえあるのだ。だが残念ながらそうは問屋がおろさなかった。都市は実に人類と地球の将来をおびやかす悪の根源であったのである。
都市は都市に住む人々にとって、便利と贅沢と安逸(即ち繫栄)を追求する場合には善であり得ても、その善であり得るということそれ自身が将来(否、現在でも)刻々と悪に転化されて行き、やがてその悪の放つ毒素によって人類は(まっ先に都市の人々を含め)破滅に遭遇しなければならないのである。都市が便利と贅沢と安逸を追求するためには、必ず浪費と破壊と汚染を重ねなければ
ならず、それがいうまでもなく人類と地球にとって恐るべき破局をもたらすこととなる。
そもそも都市はそれ自体、非自給的であり、非生産的である。この際製造加工業の如きは、いかに莫大なオモチャやアクセサリーを作ってもそれは生産とは言えず、むしろ鉄や銅やアルミや
石油の消費と見なければならない。かくて都市は非自給的、非生産的なるが故に、他からあらゆる物資を奪ってこなければ、その機能を維持することも、活動を持続することも(贅沢や安逸を求めることも)できないのだ(当然都市に住む人々の生き存えることさえも——)。
そこでまず都市は奪うことにおいて必ず他を窮地に陥れ、かつ人類と地球に重大な障害を及ぼすに至るのである。以下にその収奪における都市の悪の数々を列挙してみることにする。
第一の悪・森林の破壊
都市は初めに森林を破壊してつくられた。いかなる都市といえども、空中や水上に浮かばない限り、その拠って立つ地盤は必ず曾ては森林であった筈の大地である。このようにして都市は、まず自らの誕生のために緑を消滅させたが、その緑への加害者であるにもかかわらず、都市は、緑によってつくられる酸素を必要とし(あふれる人間、ひしめく車、林立する工場など酸素の所要量は田園の比ではない)、他地域の緑をアテにして辛うじてその機能や生命を維持しているのである。
それだけならまだ我慢もできようが、横暴にして不遜なる都市は、その大切な他地域の森林をも、自らの便益と贅沢のためにさらに収奪破壊してやまないのだ。清水港へ行ってみると、そこには世界の途上国に濫伐せしめて収奪したおびただしい量の木材やパルプが山積みされている。
緑を奪われたそれらの国々は、皆伐後の大地が荒土や砂漠と化していくのに泣いているのである。
このようにして都市が使い捨ての厖大な包装紙や輸送箱や、そしてくだらない新聞や雑誌やチラシを氾濫せしめ、贅沢と便利に酔い痴れているとき、都市は都市が活動するために最も大切な酸素の目減りによって自らの首を締める事態に直面しつつある。しかも都市はその厖大な量の紙を使用後、またもや酸素を用いて焼却するという三重の悪を冒しているのだ。
都市よ、さらに刮目してよく見きわめよ。汝が南半球から奪いつつある森林資源——その枯渇は南半球の危機であるだけでなく、それは即都市の拠って立つ木材原料の危機でもあるということを——(湿潤性熱帯における森林破壊の進行は西暦二〇〇〇年までに四億四六〇〇万ヘクタールの密林が消滅すると予測される=『西暦二〇〇〇年の地球』 一九八〇年七月アメリカ合衆国政府特別調査報告書、家の光協会・刊)。
第二の悪・農地の収奪
前項では、都市は森林を破壊してつくられたと書いたが、森林の跡地はとりも直さず農地として
活用のできる、言わば「可耕地」であるはずである。都会はほとんど平野部の最も肥沃な土地を選んでつくられているし、その他の中間地帯や沿線沿道、村の中心部等も(一部山を切り開いてつくった所もあるが)たいていは可耕地を略奪して都市化されているのである(宅地なみ課税だとか都市計画法
だとかは、強引に農地を都市化せんとする法的策略である)。
都市の人々よ、この場合も森林と同様に、あなた方が都市化のため奪わんとする農地は、あなた方の生命の糧を作る大切な場であることを忘れるな。
第三の悪・大地のコンクリート化
奪った農地は、都市の便益のためにたいていコンクリートで蓋をするのであるが、これで永久に大地の機能は失われる。
大地の機能——よろずの生物は母なる大地から生まれた大地のめぐみを受けてこの地上に育つのである。また、大地に降る雨は適度に土中に吸収され、井戸水や谷水の源泉となり、日照り
のときも徐々に放出できるよう調節保管されるのである。さらに大地は地上のすべての汚物(重金属・化学物質等を除く)を浄化する作用を行う。排泄物や屍体、枯草や落葉等を、土壌中の微生物によって土に還元する作用を何億年もの間休みなく続けてきた。
その大地にコンクリートで蓋をしまえば、このような大地の機能は麻痺し、大地は死滅する。死滅した大地(コンクリート)にはタネ下ろしても育たず、またコンクリートに降る雨は、一度に流失してしまい、日照りのときはたちまち欠乏を告げるのである。そしてコンクリート上の汚物は浄化されないまま悪臭を放ち、掃除と消毒をしなければ住むに堪えなくなるのである。
動植物が育ったり、雨水の調節が行われたり、汚物が浄化還元されたりというような大地の機能は、これは自然循環作用の大動脈である。もしこれを遮断すれば血流は止まり、地上は死の世界と化す。そしてコンクリートこそこの血流を断ち切る元凶なのである。
大都会の如きはコンクリートの山積みみたいなもので、大地への侵害は極致に達する。林立する高層ビルが崩壊したら、瓦礫の山は一体どう始末するのか、どこへ捨てるにしても、それを捨てる先の大地がふさがるのだ。海の底だって大地であることに変わりはない。工場でもオフィスでも舗装道路でも、いったんつくられてしまったら、大地迫害の烙印は永久に消えることはない。大自然の機能はその分だけ必ず損傷を受け、その損傷に見合っただけ必ず人間は仕返しをこうむるのである。天網恢恢疎にして漏らさず——どうして自然がうっかりして気づかなかったり、情をもって大目に見てくれたりすることがあり得ようか。
第四の悪・農業人口の略奪
都市は農業人口を奪うことによって膨張してきた。都市の拡大とは二次三次人口の増大ということであり、二次三次人口の増大とは農業人口の減少ということである。
少ない農業人口で多くの不耕人口を養うためには、省力多収農業が必至であり、農薬化学肥料多投、農業機械(資材)石油エネルギー依存の収奪汚染農業に帰結せざるを得ないのである。増大した二次三次人口が、近代生活(便利と贅沢と安逸と)を享楽しようとする限り、農産物(食糧)の汚染は消費者(不耕人口)の甘んじて受けなければならない当然の代償である。
第五の悪・農産物の搾取
コンクリート上の都市は食糧を自給することが不可能なので、一片の野菜、果物、穀物といえども農村から搾取することなしには生き存えることができない。かくて都市は、昔は領主や地主を通じて農産物を強奪し、近くは食管法によって強制供出を図り、今は貨幣を媒体にごっそり農産物をまき上げる——都市が生きるためにこれらは必須の苦肉の策であったのだ。いかなる手段をもってしても都市は永久に(都市が瓦解するまで)農産物を搾取し続けねばならない立場にある。いざとなれば軍隊の銃口が百姓に向けられても敢えて異とするには当たらないであろう。
しかも都市は、どうせ奪うなら一級品を奪え(犬でも猫でもまず旨いものを先に獲るのである)というわけで、領主や地主は年貢には米を出せと命令した。「ヒエやアワは罷りならぬ。それらは百姓の食いものである」と彼らは規定した。の「ササニシキ、コシヒカリなら高く買いましょう」というのと、領主や地主のそのエゴと、一体どれほどのヒラキがあろうか。
このようにして続々と都市には農産物の一級品が集中し、田舎はその残り物で我慢しているのである。ほんとうはその逆であるべきはずのものを——。
第六の悪・自然海岸の破壊と水産資源の濫費
かつて東京湾は著名な近海魚の漁場であったが、今やコンクリートで固められた湾岸へ大量の汚排水がタレ流しとなり(このタレ流しについては本章で後述)漁場は消滅した。都市は自らの便利のために自然海岸を破壊し(東京湾限らず日本の海岸の大半はコンクリート化されてしまった)湾岸漁民を犠牲に供してきたのである。
もともと海の浄化力の最も大であるのは自然海岸付近である。(注1)そこには水産資源が豊富に存在し、コンクリートで固めたり埋立投棄さえしなければ、わざわざ遠洋漁業に出かけて他国に迷惑をかける必要はないのである。
日本の遠洋漁業は、たとえばインドネシア海域でエビを乱獲し、八千トンのエビをとるために七万トンの魚を廃棄処分しているという。(『食糧』一九八三年六月朝日新聞・刊)エビは高く売れるが(贅沢な都市住民が喜んで食うが)他の魚はコストが合わない(奢れる都市住民が喜ばない)ので、仕分けした後の死魚はそのまま海中へ投げ捨てられる。これらの魚はインドネシア人の大切な蛋白資源なのである。
このようにして都市のエゴは、七万トンの魚を犠牲に供することにおいてエビを飽食し(田舎でもエビを食っているではないか、という反論については後述する)、しかもそのエビをも乱獲のため絶滅の危機に追い込んでいるのだ。ここにおいても森林と同様、インドネシアの魚危機は、即我が都市の魚危機につながっているのである。
(注1) 川の水でも岩や砂や草の間を縫って流れる場合は百メートルもすれば汚水は浄化されるので
あるが、コンクリート水路の中を走る水は千メートル流れても浄化されることはない。
第七の悪・エネルギー及び金属資源の浪費
都市の機能は厖大なエネルギーや金属資源の浪費によって支えられている。それらはほとんど都市の贅沢と便利のために(エレベーター、自動ドア、ネオン、交通網、冷暖房など)、また、くだらないオモチャやアクセサリー(車やカメラやテレビやロボットなど)を作るために使われる。都市(工業)は、石油や金属資源が永久に無限に供給され続けるという仮定のもとに成り立っているが、しかしそれらが有限で、残りはだんだん少なくなっていることは、幼児にでも理解され得る極めて明瞭な予見である。
すさまじい資源の奪い合いと浪費は、貨幣経済における利潤の追求と相まって、この残り少ないものに先を争う都市型競争意識のあらわれである。近代都市文明、即ち都市の贅沢繁栄はこのエネルギーや金属資源の浪費の上に咲くアダ花であった。
第八の悪・酸素と水の過大消費
酸素の消費については、森林の項で述べた通りである。便利な石油エネルギーも酸素がなかったら燃やすことができない。酸素は都市機能の活動を担う最も重要なカギを握っているのだが、都市はそれを過大消費してとどまる所を知らない。酸素は刻々と減少しつつあり、やがては人類の生存そのものをおびやかすに至るであろう(ジェット機一台が一分間に消費する酸素の量は、人間一人一ヵ年分の消費量に匹敵するという)。
水も水洗便所や工業用水として、便利と金儲けのために都市は平然と浪費する。
第九の悪・電源及び水源獲得のための犠牲強要
都市のエゴは電源や水源の獲得においてまさにムキ出しとなる。かつて、(明治二六年)東京市は、自分たちさえ便利で快適な生活を送ることができれば、小河内村(当時神奈川県)がダムの底に沈んでも当然だと主張した。明治二六年四月一日神奈川県三多摩郡(現在の東京都三多摩地方)
は東京府に移管された。かくて小河内村の百姓は先祖伝来の生活の場を追われダムは出来上がったが、東京市民は便利と贅沢と安逸のために、あるいは金儲けのために、水を浪費して顧みることはなかったのである。この「日蔭の村」の悲劇は、そのまま原発の村の悲劇でもある。何故都市は原子力発電所を大都市のどまん中につくらないのか。何故臨海工業地帯につくらないのか。都市住民よ、水洗便所の水や自動ドア(ドアを開けるべき手があるはずなのに——)を動かす電力が足りなければ、都市に住むのをやめればよいのである。
二 排出する都市の悪
以上は都市が生きていくために(都市機能の活動のために)どうしても行わなければならない収奪破壊行為の概要である。
そして都市はさらに今度は、収奪したこれら数々の物資を使用済後、廃棄物および排泄物として他に転嫁する=押しつけるという悪を、あたかも当たり前の如く行うのである。いかに都市が器用な玩具文明の創設者であろうとも、収奪したものの滓を手品の如く消滅させることはできないのだ。(物質不滅の法則)。
次は、その排出(他へ転嫁すること)における都市の悪の数々を列挙してみることにする。
第一の悪・二酸化炭素の放出
酸素を奪ってこれを多消した結果、出てくるものは必然的に大量の二酸化炭素である。これは
緑が同化作用によって再び酸素に換えてくれるべきものであるが、残念ながら都市はその緑を破壊してやまないので、酸素の再生能力は二酸化炭素の過大放出を補うことが不可能となっている。もしもこの世に都市が存在しなければ、消費と再生はバランスが保たれるはずである。
このようにして大気中の二酸化炭素は増加の一途をたどり、西暦二〇二五~二〇五〇年には大気中の二酸化炭素は、工業化以前の量の二倍に達するといわれている(『西暦二〇〇〇年の地球』
一九八〇年七月アメリカ合衆国政府特別調査報告)。そうすると地表は温室効果のために温度が現在よりも二~三度上昇し、やがて氷河が融け海面はいまよりおよそ五メートル高くなり、世界の大抵の大都会はこれで水浸しとなる。自業自得というべきか。
第二の悪・排ガスによる大気汚染
林立する工場の煙突、(電化されている場合はその電力を供給する火力発電所の煙突、)道路にあふれる自動車の群れや飛び交うジェット機、それから排出される有毒ガス、細塵の量は夥しい(小なりとは言えタバコの排毒も・・・・・・。田舎でもタバコを吸っていることや、田舎にも車のあることについては第三章で後述)。それはそのまま地球上の大気を汚染し、また放出された煤塵は太陽熱を遮蔽、地表の温度を下げるともいわれている。一方において温室効果、他方において冷却効果があればプラスマイナスちょうどよいではないか、などと安心しているわけにはいかない。いずれの効果が現れるにせよ、二酸化炭素が多くなり、有害排ガスが多くなり、煤塵が多くなるということは、そのまま人類を含め地球上生物の生存そのものに悪影響を及ぼす結果となる。
第三の悪・高空オゾン層の破壊
都市が考え出した便利な道具ジェット機と、スプレーや冷蔵庫と、それに都市が農村が牛耳るためにつくり出した化学窒素肥料と、この三つが高空オゾン層を破壊する元凶である。
成層圏を航行するジェット機から放出される炭化水素や窒素酸化物がオゾン層に及ぼす影響は、最終的にはおよそ六・五%のオゾンの減少と見積もらている。スプレーから放出されるクロロフルオロカーボンが高空へ上昇しオゾン層に与える影響は(一九七四年の規模で使用され続けると仮定しても)、今後五〇年間でおよそ一四%のオゾンの減少と考えられている。化学窒素肥料に固定された窒素が脱窒される際に放出される亜酸化窒素の高空オゾン層に作用する影響は、将来およそ三・五%のオゾンが減少すると予測されている。
さてオゾン一%の減少は、二%の紫外線増加と見積もられ(高空オゾン層は太陽紫外線を吸収する役目をもっている)、そして紫外線の増加は地球上生物の生存に脅威をもたらし、このままの状態で推移すれば(抑制することなく進めば)やがて絶滅の危機に直面する種もあるという。種は互いに関連し合って生態系を維持しているので、たといその一つでもダメージを受けると、生態系全体が危険にさらされることとなる。人類が直接受ける脅威では、成層圏のオゾンが一〇%減少した場合、皮膚ガンが二〇~三〇%が増加すると見倣されている。(以上、前出『西暦二〇〇〇年の地球』より)
都市が大気中から窒素や酸素を盗み、大地から金属や石油を奪ってつくり出した偉大な化学的成果は、(それを製造する段階での公害タレ流しだけにとどまらず)それを使用する段階で人類と人類を取り巻く地上生態系へ恐るべき危険をもたらすことに役立っているのである。
第四の悪・汚排水のタレ流し
都市が便利と贅沢と安逸を維持するために大量に使用する上水は、使用後必ず何らかの経路を経て海へ放出されるのである。その下水の量は上水の量とほぼ等しい(たとい人間が飲料に用いた場合でも、それは小便となって必ず海へ放出される)。
この汚排水は、いわゆる下水処理して汚泥と水とに区分、汚泥は陸地へ埋め立て(汚泥については次項に)、水は下水道を通じて海へ流される。ところがこの下水処理は完全でないので、元素により一〇~六〇%の残存率をもって水と共に海へ入る。しかも大抵の都会では下水は雨水と合流式になっているので、雨の日には処理しきれずそのまま無処理で海へ流される。海はかくして下水溜めとなっているのである。(『ヒューマン』誌一九八二年三月号)
さて、手をきれいに洗うということは水を汚すということである。洗濯——川や海を汚すことによって衣服を清潔にするということである。水洗便所また然り。自分さえ清潔な暮しができれば海は汚れても構わない——都市はこのエゴの上に成り立っているのだ。
第五の悪・ゴミと汚泥の埋め立て
いかなる物資(ゴミ)も、形を変えることはできてもこれを消滅させることはできない。燃えない固形物については言わずもがな、可燃物を焼却処分したとしても、それは一部気体となって大気中へ拡散し、残余は灰として残ることとなる。そしてそれらが全く無害であるという証明はない。たといそれらを無害化する技術を都市がもったとしても、大量の廃棄物(灰)は物理的に必ず他を圧迫しないではおかない。
狡猾にして不遜なる都市はそれら厖大な量の滓を、田舎または海へ転嫁することによって自らの環境を快適にしようとする。だが自分の家をきれいにするためにゴミを隣の家に捨てることが許されようか。環境庁が表彰するほど美しい街、清潔な工場とは、最も沢山の汚物を他に転嫁したことを示すものにほかならない。
都市から持ち出す廃棄物の内、量的に最も多いのは建設資材のゴミである。大都会では全廃棄物の約三分の一がそれに当たるという。何か新規事業をやろうとすると、前の構築物が邪魔になるのでこれを撤去する。その捨てる先は(名古屋市を例にとると)買上げ農地である。都市が更なる
便益と贅沢のためつくった施設にかかわる一切のガラクタ、それは到底一日といえども都市の中に置くことのできない邪魔物=従って田舎でも邪魔であるべきはずのものを都市は、あたかも当然であるかの如くそれを田舎へ持ち出して押しつけてしまうのである。もしも逆に田舎が都市の買上げ空地へ、藁や木端や石コロを運び込んで捨てたとすれば、都市は果たしてそれを黙認することができるであろうか。
建設廃材のゴミに次いで多いのは製造加工業から排出されるゴミである。そして一般家庭から出るゴミ、サービス業から出るゴミ、と続くのである(この中にはもちろん水銀だとかPCBだとかABSだとかいう有害物が含まれている)。これらは下水処理の汚泥と共に陸地あるいは海岸付近へ埋立または投棄されるのである。
第六の悪・商品の洪水
都市が製造加工の段階でいかに資源を収奪浪費し、公害をタレ流し、廃棄物を他に押しつけて
きたかは既に述べたのであるが、都市の産業活動における悪はそれだけにはとどまらないのだ。
実に都市は彼らがつくり出した莫大な量の製品(商品)を巷に氾濫せしめ、その洪水によって人類社会を危殆におとし入れているのである。(注2)道路にあふれる車を見よ。大量に散布される農薬を見よ。ムリにも人体へ押し込まれていく薬剤や添加物の山を見よ。百害あって一利なきタバコの濫造にして然り、生甲斐の損失をごまかすための夥しいアルコール類にして然り、音の麻薬によって騒音と痴呆症を作り出す厖大なレコードやテープにして然り、くだらない活字や絵が氾濫する週刊誌やマンガ誌にしても然り――数え上げれば限りなく、それは実に都市が作り出すところの全商品に及んでいるといっても過言ではない。
そしてそれらは、先述のジェット機やスプレーのように、その使用段階で悪を撒きちらすのみならず、それらが使用済となった後にも、第五項で述べたようなゴミ公害となって、他地域へ甚大な迷惑を及ぼすに至る。いかなる商品といえども、いつまでも新品同様使用に堪えるものではなく、やがては必ずガラクタとなって廃棄処分されねばならない宿命をもつ(近頃は故意に耐用年数を縮めた商品がやたらと目につく)。テレビや洗濯機や自動車などのガラクタ廃品が至る所に投棄されている光景は(繫栄のシンボルであったはずなのに)世紀末的侘しさを感じさせるではないか。虎は死して皮を残すが、都市商品は死してもなお悪を残すのである。
人類は遂に商品とその廃品の下敷きとなって潰されるのであるか――。(注3)
(注2) 商品が巷にあふれているにもかかわらず都市は、何故そのようになお増産(生産性の向上)
に狂奔するのか――それは(既に若干ふれた如く)貨幣経済の魔力のせいである。もっと沢山お
金を儲けるために――即ち利潤の追求のために魔の糸にあやつられて果てしなく増産されていく。
元来貨幣はその意図するところの如何を問わず食糧搾取の武器として活躍してきたのであるが、
今や単に食糧を都市に集める働きをするだけにとどまらず、あらゆる産業活動の血液となって、
自然の破壊汚染や資源の収奪浪費、そして商品の過剰生産や廃棄物の押しつけ(金を払えば汚し
ても文句ないだろうということ)などを強行せしめているのである。
(注3) 都市の作り出す商品の「功徳」にことさら目を瞑ろうというわけではない。憚りながらタバコや
食品添加物や車が、いかに魔の恩恵を人々に与えているかは百も承知の上で言っているのだ。
第七の悪‣強制過剰サービス
例を公務員にとる。公務員は一定の比率をもってふえ続けていくという。あの狂暴にして偉大なる独裁権力者ヒトラーでさえ、行政簡素化を断行しようとして官僚の根強い抵抗に遭い、ついに挫折せざるを得なかったというから、今どきの軟弱内閣や石アタマの臨調などが、いかに逆立ちしたって行政改革なんかできるはずがないのである。
さて役人は次のように考える。折角ぬくぬくと与えられたポスト、居坐ってさえいれば多額のサラリーにありつけるのだが(スタッフはあり余るほどあって、誰がいつズル休みをしても差支えないように、補佐だと
か副だとかいう役職がワンサとある。現在の人員を二分の一に減らしても仕事の遂行には支障がないと思われる)、このまま慣行業務だけをやっていては能無しと思われそうなので、エリート官僚の面目にかけ、やおら次の新しいサービス業務を企画する段取りとなる。
彼は得意の役所弁を駆使して新法案を作成し(議会は民主政治を行っているというゼスチュアを示す空談義の場にほかならず、中身の政策はブルジョアジーの代行者である官僚がおこなっているのである=レーニン)上司に賞められると同時に上司の顔をつくろい、同じ穴のムジナである関係議員を動かして法の成立を図り(注4)、かくして新しい分野のサービス業務が始動しはじめる。もとより怠惰な彼らは決してその新事業を自ら余分に行うのではなく、その分だけスタッフをふやして縄張りを拡張するのである。
迷惑なのはそのサービスを受けなければならない民衆の側である。たとえば目の回るほど忙しい百姓をつかまえて、今度これこれの事業を行うに当たり、これこれの調査をするから立ち会えと言う。またこれこれの申告を洩れなく提出せよという。古来役人には弱い百姓のことゆえ、たといありありとそれが有難迷惑なサービスであると判っていても、表向き神妙にそれに従わなければならない。かくて猫の手も借りたい多忙の時間を割いて、悠長な役所業務におつき合いをし、時には昼食を接待して御機嫌取りをする羽目となる。
役人かくの如し。民間のサービス業も轡を並べてサービスの押し売りにやってくる。近頃変な、今まできいたこともないようなサービス業が台頭し、善良な民衆をだまして多額の金をまき上げていくケースがやたらと目につくようになった。
この傾向はとどまるところを知らない。岐阜県における県内就職状況調査(昭和五七年県統計
課)によると、第一次産業に従事する青少年(十五歳~二十四歳)の割合は、昭和三五年=一三・三
%、四〇年=五・五%、四五年=三・二%、五〇年=一・六%、五五年=一・一%と減り続け、昭和五七年には、〇・九%にしか達しなかった。あとの九九・一%は第二次第三次産業に従事し、、そしてその中の大部分は、カッコよい第三次サービス業でメシを食っていることになる。たった〇・
九%の若者が、あとの九九・一%の放蕩息子を養うことが可能であるような社会の仕組み、その都市化傾向(「都市のひろがり」第一章参照)に注目しよう。
(注4) あるいは逆に票取り議員=大臣も含めて=の要望で、新サービス業務が始められる場合もある。
この場合は上司からの命令として行われ、役人は渋々法案の作成にとりかかる。票取り議員(上司)
を動かすのは、圧力団体であったり癒着企業であったりするのだが、そういうことが昂ずると、次の
ような恐るべきサービスが強行される心配がある。即ち病院や医者が過剰となり、患者不足で経営
困難におちいると、大病院や医師会は、厚生省や代表議員を動かし、福祉国家の名において「国民
総人間ドックいり」を法制化する段取りとなろう。かくて国民の大半は、患者不足を埋めるため強制治療
を受けなければならない羽目となる。反自然の生活に溺れた近代社会の人間が、精密検査をうけて何
の故障も発見されないということはありえないからである。
第八の悪・戦争の仕掛人
銃や弾薬も都市でつくられる。そしてもちろん核兵器も――。
直接人を殺す武器を製造販売する者は当然死の商人であるが、よくよよくよく考えてみるとその他にも死の商人は都市に充満しているのである。極言するのを許されるならば、二次第三次産業従事者はみんな死の商人であるといっても過言ではない。たとえば食品添加物や農薬やタバコや車やジェット機などを製造販売し著しく人々に危害を及ぼしつつ利益を得ている者はことごとく死の商人である。これは言わずもがなであろう。
ところでまさか俺は――と安心しているに違いない、"聖業"の教師といえども、進歩発展向上繫栄=即破壊汚染につながる一切の教育(それに全く関わらない教育などあり得ない)を業とする以上は、死の商人のレッテルをはがすことはできないのだ。
医は仁術である医師が製薬会社と癒着して、やたらと大量の薬剤を点滴、注射、挿入、または経口投与して、薬づけ医原病の要因をつくっているが如きは、死の商人の亜流と考えて差支えあるまい。
さらには芸能人、プロスポーツマン、文学者、画家、作曲家、評論家、そして考古学や人類学など毒にも薬にもならぬと弁明のできそうな有閑学に携わる学者も、これら一切の人々も、自ら手に泥をぬらずに不耕貪欲をもくろみ、少数の農民の上にアグラをかいて省力多収農業を強制し、農薬中毒、ハウス病の多発や汚染農産物の大量生産に寄与している限りは、死の商人の系列から断じて除外するわけにはいかないのである。
以上羅列してみて、自分だけは例外であると言い得る人が都市人口の中に果たして一人でもあるであろうか。よしんば例外があり得たとしても、彼が便利と贅沢と安逸を求めて都市に住み、都市の行う収奪破壊行為に加担しているという事実についてはどう言い逃れる術もないのである。
さて、殺人武器を作っているのが都市であることはいうまでもないが、この武器を使って戦争を仕組むものもまた都市であることに注目すべきである。
都市は、本章の冒頭で述べたように、それ自体非自給的であり非生産的であるので、すべての物資を他から収奪してこなければ、そしてなお都市は自浄作用を持ないので、収奪したものの滓を他に押しつけなければ、都市機能を維持することも都市活動を持続することも不可能である。そこで当然他の都市との競合が生じ、ゼニや話合いで解決がつかなくなると、いきおい武力で解決ということになる。人類史上これまで一体どれほどの数、このことによって戦争がくり返されてきたか判らないのである。
自給自足、大自然のめぐみさえあれば自活が可能である所の田舎は、少なくとも戦争に訴えねばならない理由を持たないのである。
都市の人々よ、核廃絶を叫ぶならば、何よりも先にその温床であり張本人である都市そのものを解体しなければならないのだ。さもなくば都市は自らつくった核のために、都市住民もろとも潰滅されることとなろう。(注5)
(注5) NHK特集「地球炎上」(昭和五九年八月放映)では、東京が核攻撃され (東京タワー上空
一メガトン一発)、林立するビルや走行中の新幹線やジェット機や高速道路上の自動車などが一瞬
にして吹っ飛び、炎上し、さらにはコンピューターを操る人々や歓楽街を遊歩する人々、マーケットで
買物する主婦たち、そして小学校の校庭で遊んでいる都会の子供たちが瞬時に吹き飛ばされ、焼き
ただれ――かくして爆心から半径一五キロ以内の六〇〇万人に及ぶ人々は全部即死である、と報じ
ていたが、この場合私は、これら無実の東京都民があわれな被害者であるという見方には反対である。
核攻撃した側も受けた側もひっくるめてこれらは、断じて異質の存在ではなく、すべては、破壊、略奪、
倣慢、不遜、横暴な「都市」そのものであり、高層ビルや新幹線やジェット機やコンピューターやスパー
マーケットをつくった都市文明が核兵器をもつくったにすぎないのである。ゆえに核をやめようとすれば、
都市をやめなければならない。核は牛の角である。角を取り去って牛を生かしておくことはできないのだ。
都市の人々よ、さらに刮目してよく見きわめよ。核さえ廃絶されるなら永久に平和と繫栄が約束される
という考えは妄想にすぎないということを——。
実にこの平和と繫栄を維持するためにこそ都市はどれほどの悪を(破壊汚染浪費を)重ねなければ
ならないか、そしてどれほどの破局を人類と地球にもたらすことになるか――。
核で滅ぶも、汚染破壊で滅ぶも、五十歩百歩の差でしかない。都市が自らつくった核で自滅する
なら自業自得というべきである(当然このような都市の存在を許して[培養して〕きた田舎の共倒れ
もひっくるめて・・・・・・)。