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 第三章  都市と田舎
 
   一 日本全国都市と化す
 
 前章(第二章)においてわれわれは、都市がそこに在り続ける限り、その活動の所産である都市公害は「発生せざるを得ない」ということを知った。そしてその都市公害は、その地球公害であり、都市を措いて他に地球(環境)を破壊汚染するものはあり得ないということを知った。
 ざっと見渡しただけでも十指をはるかに超える致命的巨大公害の、都市はその唯一の元凶であり、人類と地球を脅かす諸悪の独占的根源であったのである。
 ところが滑稽にして倣慢なる都市は、明らかに自らの責任である地球公害を転嫁して、これは科学文明の故であり、工業国家の故であると主張してやまないのである。そしてその文明国家の領域には、いうまでもなく田舎も含まれることとなる。
 田舎でも車を動かし、プロパンを用い、電気を使い、タバコを吸い、紙を浪費し、農薬をバラ撒き、洗剤を流す、文明国家に属する以上、田舎といえども同罪たるをまぬがれず――と都市は公害発生の責任を田舎にも分担させようとする。しかも都市はそのことをもって、自らの行う公害発生を近代国家のやむことを得ざる必然の現象として、あわよくば正当化しようともくろむのである。
 だが残念ながらそうは問屋がおろさなかった。
 鬼の首でも取ったようにあなた方のいうその「田舎」とは、実は本当の田舎ではなくて影武者にすぎなかったのである。本当の田舎とは、「すべての都市的な影響を除外して残ったもの」を指していう。さらにいえば、「都市が滅んでも在り続けることが可能なもの」を指していうのである。
 あなた方のいう田舎とは、「都市の影響下にあるニセモノの田舎」であった。田舎の人が(半都市的人間が)車に乗り、トラクターを動かし、テレビを見、タバコを吸い、加工食品を食い、石油を燃やし、電灯を点し、新聞を読みしているその生活は、都市が存在しなかったら行う能わざる生活であるが故に、これは都市化された田舎、都市的田舎――というべきであろうが、もっとつきつめて考えると、それは到底田舎の冠称をつけられるような代物ではなく、ズバリ都市そのものであるといってもよいのである。
 一軒の農家においてこれを見れば、長男がサラリーマンならいうまでもなくこれは都市に属し、主人公が兼業で日曜百姓であれば、月~土の期間は都市に属し、日曜日に百姓やっても、石油や農薬の世話になればそのときは都市に属し、畑から家へ帰ってビール飲みながらテレビを見れば、その時も都市に属し・・・・・かくして日本国中至る所、純粋に都市でないものは一つもなく、いやしくも「田舎」と称するものは皆無である、ということになるのである。然り、恐るべき悪魔の息吹は完全に村の隅々まで浸透し、田舎は都市によって(都市の商業主義によって)ことごとく占領されつくしたといっても過言ではない。
 これが現実である、と都市はいう。現実は厳として認められねばならない、現実を尊重せよ――と。
 
 
 見えざる真の田舎とは
 しかしよく考えてみれば、現実、現実と一枚看板みたいに言っても、そんなものはいつでもひっくり返せるものであり、ひっくり返した途端、そのひっくり返されたあとのものがまた即座に「現実」となることができるものである。都市化以前の田舎もそのときはそれが現実であったことは間違いないし、都市化された後の田舎も御覧の通りの現実となった。故にこれをひっくり返して都市を滅ぼし、都市の影響を無くしてのちにそこに残る真の田舎も、即刻現実と化すことは疑う余地がないであろう。
 だから「現実に田舎はもしや存在しない」というよりも、「いま存在している都市的田舎を取り外せば、残るものは現実に田舎そのものである」と解釈すべきである。
 もう一度くり返す。都市を滅ぼして残ったもの、それを真の田舎という。
 都市からプロパンガスが来なくなれば、薪を燃やし、薪につけるマッチが来なくなれば、積み藁にもぐり込んで暖をとり、あるいは火で加工することをやめて、玄米でもイモでも生で噛る。
都市から遠洋漁業のエビが送られて来なくなれば、エビを食うことをやめてイナゴや地蜂を捕えて食い、都市から塩が来なくなれば、塩は人間のみが過剰摂取して健康障害をもたらしているものであるからもっけの幸いと思い(野生の動物はことさら塩を摂らないが健康を害したということをきかない)、都市から靴が来なくなれば、藁で草履を作ってはき、都市からアルミサッシや瓦が来なくなれば、丸太棒や藁で掘っ立て小屋を作って住み、都市から電気が来なくなれば、日入りて眠り日昇りて野に働く・・・・・それが田舎というものである。そういう田舎はいま「現実」には(未開民族以外)存在していないが、都市を滅ぼせばたちまちすべての人々がそういう田舎暮らしに突入せざるを得なくなり、それが直ちに「現実」と化すのである。この田舎の一体どこに公害の発生する余地があろうか。
 
 
  二 繫栄を求める都市の末路
 
 都市と田舎――それは贅沢(富)と耐乏(貧)との対比であった。
 近代化を目ざす中国が、「富むことは正道なり」と言いはじめたのは(人民日報論文)、中国古来の「富は悪にして貧は尊し」とする不滅の道徳をも放棄せざるを得ないほど、贅沢の誘惑には勝てなかったということの証左である。
 いまや発展途上国(巨大中国を含めて)の都市化は、「富むこと」「近代化」「贅沢」を求めて怒涛の勢いでもって進んでいる。近い将来メキシコ市などはニューヨークを抜いて二千万都市になるという予測がある。(一九八五年国連の人口動態調査)。このようにして発展途上国が先進国並みに近代化をなし遂げるとき、それが年貢の納め時となるであろう。たとえば中国十億の人口うち九億の人々が安逸貪食(近代化=富、繫栄)を求めて都市に住みつけば、それに要する資源とそれらの撒きちらす毒素はおびただしいものに上るであろう。そもそも先進国が近代化をなし遂げたのは、途上国からあらゆる物資を奪い、その滓を到る所へ捨てることができたからである。いまもし都市化が全世界に及べば、そこには奪うべき相手は無くなり、捨てる先はふさがってしまうに違いないのだ。
 もちろん、先進国でいえば「貧乏への逆戻り」、途上国でいえば「いつまでも貧乏」はたまらない。「今さら靴の代わりに藁草履」「これからも藁草履」で我慢できるか――とは誰しも主張するところである。だからそういう考え方では貧は(耐乏は)悪であるけれども、しかし人類が消滅するほどの大悪と比べれば、貧(耐乏)などは物の数ではないであろう。
 人々よ、まんじゅうは確か諸君の空腹を満たすために諸君にとっって「有益」な存在であった。
しかしそれも、食い、また食い、そしてまた食えば、やがて諸君は胃をこわし、初め諸君にとって有益であった「贅沢」も、度を越えて行けばそれは害悪に転化するのである。
 ますます都市化=贅沢化が進んで、この地上すべてが都市となれば、害悪への転化は極限に達し、人類は滅亡せざるを得なくなる。都市は田園に依存しなければ(酸素や食糧)一日と雖も生きて行けないが、田園は都市に依存しなくとも(贅沢を拒否しても)、大自然にさえ依存していれば(自給耐乏)、何とか生き存えることができるものである。
 都市化――それは都市の命の根源である田園を蚕食していくことを示すものに他ならない。人々よ、それにもかかわらず日毎に田園は潰され、都市は拡大して行くのである。人類は遂に破滅の烙印を押されたのであったか。
 
 都市と田舎の区別についての補足
 都市は貨幣が無ければ滅ぶけれども、田舎は貨幣が無くても滅ばない。田舎が滅ぶのは、大自然が滅ぶとき以外にはない。
 都市は貨幣によって支えられて(貨幣によって田舎を支配し、田舎を搾取して)その機能を維持し、その活動を持続しているので、もし貨幣の使用が禁止されれば、即刻その機能は支障をきたし、活動は停止する。これはまさかの空論ではなく、カンボジアのポル・ポト政権がかってそのことを実証したのであった。貨幣の使用が禁止され、物々交換が強制されるや、都市人口は食糧を求めて農村へ農村へと流れ、首都プノンペンはたちまち廃墟と化したのであった。一発の爆弾を投下せずとも、ただ貨幣さえ追放すれば都市は一朝にして潰滅することを、身をもって示したこれは偉大なる実験ではなかったか。(この場合の偉大なるとは「貨幣追放」そのものを指して言ったのであって、同政権が偉大であるという意ではない。この項ややもすると、ポル・ポト政権そのものの評価として受けとめられる恐れがあるので、くり返していうが、貨幣追放とポルポト政権の虐殺行為とは、画然と分離して考えて頂きたいと思うのである。しかし貨幣追放が弾圧虐殺と絡めて、同一政権によって行われたが故に分離できないといわれるならば、それ程の大悪を犯さねば遂行できない貨幣の追放は、現体制下において実現不可能の課題であることを認識しなければなるまい。つまり人殺しをしてまで断行せねばならぬとすれば、その大罪は犯すべきではないし、逆にいえば血をみるまでも死守しなければならない貨幣の功徳とは、都市機構にとって一体何であるかを考える素地とすべきであるとも思うのである。弾圧政策は貨幣のかくれ蓑と見るは僻目か。)
 田舎でも貨幣を使用しているのは、都市的影響(都市的商業主義も被害的影響)の故であって、それは本来無くても、否、むしろ無いほうがはるかに平穏であるはずである。田舎は貨幣によって引っかき回され、貨幣によってごっそり収穫物を都市にまき上げられているのである。
 われわれの祖先は昔、塩さえあれば何も買う必要はないとする貨幣経済の圏外にいたのであった。(注2)
 百姓とは百の仕事をする意であり、衣食住のすべてにわたってセルフサービス=自前の労力で賄うことが可能であった。布も織れば草履も作る。井戸も掘れば屋根も葦く、縄も綯えば薪も作る
・・・・・。しかもそれらの原料は再生産の利く農林産物がほとんどであったのだ(これらの原料を切り刻んだり組み立てたりするための道具、鉈や鎌や鋸等の必要度については章を更めて後述する)。
 塩さえあれば――だが、これも先刻ちょっと触れたように、無くても何とかやっていけるものである。野生の動物――リスもタヌキもサルもことさら塩を摂らないが、それで彼らはその健康を万全に保っているのである。人間だけが徒に過剰摂取して動脈硬化や高血圧に苦しんでいるのではないか。塩は天然の食物の中に含まれているもので充分、大自然はリスやサルと同じく人間をもそのようにつくり上げたはずであった。
 次いで都市は、使えばもう再生産のきかない地下資源に大半を依存して生活しているので、それが欠乏すれば当然機能は麻痺し、活動は停止する。即ち都市は、貨幣に続いて地下資源の欠乏によって滅ぶものであり、田舎は地下資源は無くとも(野生の動物や未開民族と同じく)何とか生き存えることができるものである。
 次には(貨幣の項と一直線に関連するが)食糧の供給途絶によって都市は滅ぶ。貨幣を追放すれば都市が滅ぶのは、第一には貨幣で食糧が収奪できなくなるからである。
 都市は、何度もいうように、それ自体非自給的、非生産的であるので、一粒の米といえども田舎から収奪(輸入も含めて)しなければ生きていくことができない。食糧の途絶こそ都市を互解せしめる最上の手段である。
 最後に自らの便益のために、或いは進歩発展のために、自然を破壊し自然を征服してやまないのが都市であり、自然の流れと共に自然に順応して生きていくのが田舎である。
 これは両者の決定的なヒラキであり、滅ぶものと永続するものとの重大な岐路である。
 
  (注2) 当時(封建時代)農民は食糧を領主によって直接、現物で強奪されていたので、貨幣経済の
    圏内に農民を置く必要はなかった。農民が貨幣経済に巻き込まれたのは、明治政府が物納を金納
    に切り替えたときに始まる。
 
 
 
 
  三 進歩なき大自然の法則
 
 大自然の流れとは、循環することの意である。四季が巡り、昼夜がくり返す(地球が公転と自転をくり返す)。雨が降り、大地にしみ込み、泉となり、泉から谷へ、谷から川へ、川から海へと流れ、そして空中へ立ち昇り、雲となり雨となって再び地上に降りそそぐ、このくり返し。親が子を産み、子が孫を生み(種子から種子へと)生命のバトンタッチはどこまでもくり返されていく。そしてすべての生物の死した後の形骸は、大地によって腐蝕土と化し(自浄作用)、再び生命をやしなう源(土壌)をつくり、そこに植物が育ち、動物がその植物を食べて育つ、そのくり返し・・・・・。
 くり返すものには果てがない。循環は永遠そのものともいうべきである。(注3)だから「自然は即循環、循環は即永遠」と断定しても誤りではあるまい。
 さらに、循環=くり返しには「進歩」がないということ。太初から地球が公転し自転する。中心に太陽が赫々として輝く――何千万年、何億年、そこにはいささかの発展も向上もみられなかった。即ち大自然には進歩はなかったのである。生物学上の進化は、環境への適応ということであり、進歩とは趣を異にする。たとえば人類の脳や手先の働きは進化したが、耳や眼や鼻などの感度は著しく退化した。これは知能や動物的神経が共に環境(外界の刺戟)に適応した結果である。キリンの首やウサギの耳が長くなったのも同じ。ーーもしも進化も進歩の中というならば、恐竜が巨大になりすぎたのは果たして進歩であったか。
 進化論では、単純から複雑へ、下等から高等へと変化して行く現象を「進歩」と説明してあるけれど、これも環境に順応しようとする生物本来の適応能力=自然選択に堪えるための「推移」と見倣すべきである。自然界には何故下等から高等へなのかという疑問はあり得ない。「進歩」という概念はこの疑問から生ずる人間の呪文に他ならぬ。そこにはただ自然選択に堪え得る生態や形態への追究があるのみである。
 さて田舎(農業)は、この大自然の「永遠なる循環」「進歩なき繰り返し」と共にあるべきものである。去年も春にタネを蒔き、夏に育て、秋に稔りを収穫した。今年もそうである。来年もおそらくそうであろう。大自然の循環が永遠に変わらなければ、これと密接一体の農業(この場合の農業とはもちろん田舎=百姓のことであって、近代農業のことではない)もまた永遠に変化はないのが当然である。まさに欠伸の出そうな単調なくり返し、マンネリズムーーだがこのマンネリズムこそ農業の農業たる所以のものであり、農業の本質ないし本領は、まさにマンネリズムでなければならないと思うのである。
 工業を筆頭とする近代産業(都市)には同じことのくり返しは無い。否、同じくり返しのできないのがその本質である。限りある地下資源を掘りつくしてしまえば、たとい繰り返そうとしてもそこにhs何も無くなるのだ。さてこそもう一度のきかない片道通行の故に、停滞はとり返しのつかない喪失を意味する。資源の枯渇が行きつく必然の未来であることを知覚すればするほど焦慮が加わり、先を争ってこれを奪わざるを得ず、さらに破滅を早めるための浪費に狂奔するのである。束の間の(循環と永遠とは逆の)繫栄は、滅亡の必然の上に咲くアダ花であった。近代産業(都市)にとって同じくり返し=マンネリズムは致命的打撃となる。先は短いのだ。悠長な繰り返しなどやっているヒマはないのである。進歩と発展と繫栄とは彼らに課せられた至上命令であったのである。
 されば田舎では、百年前と同じ米を作っても食うことが可能であるが、都市では、十年前と同じテレビを作っては使用に堪えないのである。一歩でも前進、一ミリでも変化。人の耳目を集めるのが稼業の文学や絵画においてもこのことは同断である。何とかして新軌軸を編み出し、新風を入れよう訳のわからぬと足搔くのである。新しがりの果てには、遂に、何を言っているのか何を書いたのか訳のわからぬ詩や散文や絵画がお目見えする。ソ連のフルシチョフはこれを評して「豚の尻尾」といい文化人の顰蹙を買ったが、これはフルシチョフが正直で正当であったと私は思う。わけのわからぬまま、新しいものに(あるいは奇なるものに)追随しさえすれば文化人と自負する人々の愚かさよ。
 かくて人々は、創造だとか、挑戦だとか、自由だとか、個性だとか、進歩だとか、勝手なことを喚きながら、前へ前へと驀進するのに懸命である。モタモタしていては取り残される。遅れては大変へんだ(これを都市型競争意識という)
 このセチ辛い競争意識が破滅への大レースを展開し、社会をあげて怒涛の進撃を続けているのである(利潤の追求との相乗効果)
終わりに近代農業へ一言ーー。
 大自然が何億万年も同じくり返しを行っているのに、これと密接不可分の関係にある農業が、二次三次の介入を受け容れて異常に進歩発展を遂げれば、そこに歪みの生ずるのは当然の成り行きである。歪みーー即ち大地(食糧)の汚染であり、表土の流失であり、土壌の塩害であり、腐植土の損失である。
 もしも農業の進歩が人間の生活を豊かにすると仮定するならば、人間はその代償に大変なものを支払わねばならないであろう。即ち人間は、贅沢な「生活」を得るために、その「生存」を失わねばならないのである。
 
  (注3) 宇宙にも崩壊の果てはあるというが、しかし小宇宙(たとえば銀河系)が崩壊し、星が粉々に
      砕け散っても、それは星間物質となって空間に浮遊し、その微粉がまた集まって星をつくり、再び
      次の小宇宙が誕生するーーこれも何千億年かをかけた宇宙運行のくり返しである。
 
 
 
 
  第四章 都市の起源
 
  一 都市発生以前の世界
 
 天空に太陽のあるが如く、地上には都市がある。大海に水のあるが如く、陸上には都市がある――と大部分の人達は信じているに違いない。そう信じなかったら安閑として都市なんかに住みつくことはできないであろう。
 ところがお気の毒ながら都市などというものは、太陽や海洋とは比較にもならぬあやふやな、泡沫の如き存在でしかないのであった。
 いかに都市の人々が都市の存在をいかしめく決定づけようとも、残念ながらその都市は、人類史上最後の泡沫として、あるいは都市それ自身を滅ぼす爆薬として僅々一万年にも満たぬつい先頃、幻世の如く誕生したにすぎないのだ。ちょうど皇軍と称する日本の軍隊が、開闢以来と幻覚し確固不動の存在を誇示していたにもかかわらず、わずか百年にも満たぬ内にあっけなく滅び去ったのと同様に――。日本軍(自衛隊は別物として)が百年の歴史で滅んだように、都市が一万年の歴史でいつ滅んでも、これは不思議ではないと思うのである。
 都市の起源をさぐって逆のぼってみよう。人類が狩や漁撈や木の実採集で生計を立てていた頃には、都市はなかったと思われる。あるいは農耕を始めても、耕すかたわら農具や衣服や住居などこしらえていた頃には、都市はなかったと思われる。何故そうなのか。自分の食い扶持は自分で捜すか作る――この暮らしの中に都市は必要ではなかったからである。



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